友達のブログ「生存確認日記」に法要でお坊さんにお経を上げて貰った時の話に以下の記述をみっける。
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住職不在(病気療養中)ということで、お経のみで説教なし。
やっぱりなんか物足りないなぁ~(^^;;)
何年か前に亡くなった、前代住職だったら、どんなお話してくれたのかなぁ。
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この気持ち、よ~~~~~~くわかります。
うちでも身内の不幸があったときに葬儀屋の紹介で檀家になった寺があったんですが、葬式から2年目あたりまではご住職がお家に来てくれてお経+説法があったんです。
この説法がまた上手いんですよ。心に響くことをゆうてくれはる。
ほとんど内容忘れちゃったけどね。でも覚えてるのは、供養の仕方でいろいろ悩んでるおかんに
「気持ちがあればええんです。型どおりや無くてもお祀りしようという気持ちが大切なんやから。好きにしたらええですよ」
とおっしゃってくださったこと。おかげでドンだけ気が楽になったことか。
ところが、途中から若住職の提案かなにかでお彼岸なんかはこちらからお寺に出向いて行く形に。もちろん、説法好きのご住職はいつも時間に遅れて大変そうだったのでその形式自体は別に何とも思わなかったんです。
が、お寺に行ってもご住職の説法無かったんです。ご住職もどっかさみしそうで・・・。説法楽しみに行ってたのにすっごい残念だった。
ちなみにこのご住職、京大出身の変わり種。
おもろい人です。和泉市の自分の寺から修業先の河内長野市の寺まで歩いて行ったと聞いてびっくりしてたらニコニコしながら涼しい顔してましたね。そんなに遠くはないけど・・・結構な山道なんですよね・・・。私には無理。
優しい人です。葬式でボロボロに泣いてたおかんに色んな話を一生懸命してくれて、慰めてくれました。
このご住職に会えるんやったら、とお彼岸楽しみに帰ってたこともあったけど、今は無理して予定空ける気にもならんです。
今は、こういう本物の坊さんは少ないでしょうね。
仏教の基本は、その人その人にあわせて説法をして諭すことにあるんじゃなかったかな。その人ごとに説法の仕方も変わってくるから、説法する人も数がいることになる。いっぺんに人を集めて説法して済むならば、教祖のような人間が一人いればいい。
仏の御利益なんぞこれっぽっちも信じてないけど、お寺のそう言う機能は大事だと思うんだよなぁ。