去年行き損ねた「高野山カフェ」に行って来ました。
どんなとこでやってんのかな?と思ったら、ガチでカフェテリアの並ぶ飲食フロアでびっくり。
密教らしさも仏教らしさもなく、唯一御坊様が居るのがそれらしい。うーむ。想像していたのとちゃいますな。
ただ、あまりに仏教らしすぎると若い人が足を踏み入れるのに躊躇するだろうから、これぐらいで良いのかな。仏教らしいところで写経を体験したければ、寺でいくらでもできるからね。
まあ、仏教てのは坊主ひとりそこにいりゃあ、それで成り立ちます訳で、大都会の真ん中だろうが紀州の山の中だろうが、高野山で修行した御坊様がそこにいて人と対話してればまあ、プチ高野山ではあるのかなぁ。
ハードと言うかビジュアル的な物がイマイチだったけど、そう考えると絶妙なバランスで成り立ってる気もする。ビジュアルが突出していると、そう言うソフトというか根本に目がいかないからね。
さてさて、目的の声明ですが、会場がカフェテリアに囲まれてて雑音の激しいこと。
うん、御坊様は修行なさってるから雑音など屁でも無いとはおもいますが、聴く我々は気が散ってしまいまして聴きづらかったりしました。
基本、聴衆が滞留できるスペースがほとんど無く、通路を塞ぐ始末。これも如何なものかいなと。警備上、不適切ですなぁ。去年とかそんなに人がこなかったんでしょうか?
声明自体は、よかったです。ええ声ですわぁ。
なんとなく、実家の法要の中身に似てて(うちはガチンコ高野山真言宗)、思わず「お盆に帰れなくてすまん」とか、よくお供え物送るの忘れるので反省したりとか。
もうちょっと落ち着いた場所で聴けたら、最高だったのですが。
いや、もう、声とか響きとかはすごいっすよ。ほんと。
あと、声明の内容の紙(プログラムみたいな)でもあれば、もっとよかったのにな。
取り合えず、来年は写経でもやりますか。何せおいらは自己流なんで僧侶に指導を仰ぐのもよろしいかと。
しかし、壁にあった駅の看板は高野山に行ったことのある人にしか分からんネタの様な(笑)私は懐かしく眺めましたが。
惜しむらくは、こうやくんに会えなかったことか。人混みに突進する気概がありませんでしたのことよ。
何だかんだ言いつつ、来年も行きそうだな。
や、実家が高野山に近くても、しょっ中行ってたら親に変な心配かけますがな。そのうち出家でもするんちゃうかとか(笑)なので、お手軽に高野山カフェで我慢しておく。
別に変な意味じゃ無く、単純に奥の院が好きなだけなんですがね。変ですかいね。
ま、そんなこんなで。声明はすっごくよかったですよ、と。はい。